「写真家として自分と話をしてくれたのは篠山紀信さんだけだったんですよ」
と話すのは、電気グルーヴやコーネリアスの小山田圭吾さんをはじめとした独特な世界観を持つアーティストのジャケットデザインなどを手がけ、カメラマン、デザイナー、DJと色んな肩書を持つ常盤響さん。
カメラを始めて1年で出した写真集は「表紙もピントもブレブレ」。にもかかわらず、発売初日に初版の1500部は完売、最終的に6万部が売れ、カメラの巨匠・篠山紀信さんとも忘れられない出会いをしたという。
そんな、彼が毎週撮り下ろした写真を公開しているのが「週刊ニューエロス」。サイトにはかわいかったり、アンニュイだったり様々な表情をした女の子のヌード写真が並んでいます。
「週刊ニューエロス」で公開されるヌード写真は、エロティックなんだけど、なんか違う。何が違うかと言われると難しいけれど、いわゆるグラビア写真とは異なるその雰囲気が気になってしまったので、今回の「性とアート」では常盤響さんを直撃してみました。それでは常盤響さんを覗いてみましょう。
常盤響の週刊ニューエロス:常盤響のニューエロス(常盤響) – ニコニコチャンネル:バラエティ
カメラをはじめて1年で写真集。当時、本の表紙には写真がなかった。
――常盤さんはデザイナーやDJなど様々な仕事をされていますが、カメラマンになった経緯を教えてください。
その質問、難しいですね。実は僕、カメラマンもそれ以外の仕事も、特に自分からやりはじめようと思ったことがないんですよ。
そもそものきっかけは、高校生からライターやバンドをしてて、自分に音楽の才能はなかったんですが、僕の周りには音楽の才能を持った人があふれてたんです。で、当時、単に僕がMACを持っているということだけで、まわりのミュージシャンのチラシなんかを手伝っていたんです。
あるとき、変なレコードをたくさん持っているからという理由でヤン富田さんからCDジャケットのデザインを依頼され、それをやったら、「常盤君デザインとかやるんだ?」と友人だった元電気グルーブの砂原良徳さん、コーネリアスの小山田圭吾さんやスチャダラパーといった知りあいのミューシャン達のジャケットデザインもすることになって。
なんか数枚しか作ってないんですけど、当時人気だったミュージシャンのジャケットを手がけさせてもらうことになって。その後も、砂原くんが「常盤さんはデザインやればいいじゃん」と仕事をとってきてくれたりしてデザイナーの仕事をしていました。
―――気づいたらやっていたと。特に勉強もせずにデザイナーってできるものなんですか?
いやあ、もともとデザインをやってたわけではないので、文字づめとかデザインがガタガタだったと思います。でも、そのアマチュアっぽい感じがよかったんですよね。
いわゆる、佐藤可士和さんたちのような広告代理店のデザイナーの方とは別に、元ミュージシャンの信藤 三雄さんは別格として、その業界でいうパンクみたいな感じなのかな?全然違う経歴のデザイナーが多くでてきた時期だったんです。
ゆとりがある時代は、そういった変なやつらに案件をやらせてみようかな。みたいなところがあって、僕がデザインをしていたのもちょうどその時期ですね。
―――デザインの仕事はほかにも?
最初は音楽のデザインがメインでしたが、友達の同級生だった作家の阿部和重さんから小説「インディビジュアル・プロジェクション」の表紙デザインを「音楽ジャケットみたいな表紙にしたいんです」と依頼されて初めて本の装丁デザインをしました。
でも、この装丁デザインが結構難しくて。仕事を受けたものの、音楽のジャケットって四角だからいいのであって、本のサイズだとなんか違うんですよね。で、本屋さんを巡って本の装丁デザインを見てたら、当時、本の装丁はテキストとイラスト、グラフィックだけで、写真を使用しているものがなかったんです。
だから本の表紙を写真にしたらきっと書店で目立つなと思って、表紙を写真に決めたんです。出版社の新潮社はうーん…という感じでしたけど。
―――出版社の方からはあまり賛同を得れなかったんですか?
自分も理由はわかってたんです。つまり、小説はイマジネーションのモノだから具象にしてはマズいってことです。なので、それもきちんと理解した上で阿部さんに「表紙を写真にしたいと思ってる。小説家らしいきちんとしたデザインと売れそうなデザインどっちがいい?」ってきいたら、彼は即答で「売れそうなやつで」ってかえしてきたんですよね(笑)
で、いざ撮影しようと思ったら、今度は撮影予算などはなく、僕のギャランティの10万円だけだと。なので、小型カメラすら持ってない撮影経験もない自分がギャラの中で買えるカメラを買い、買ったその日に撮影したのが、この表紙です。
―――え、写真撮影経験のない常盤さんが撮影したんですか?
そうなんですよね。モデルも知り合いなんていなかったので、知人が編集長をしていた風俗誌を見て気になる子を見つけて、その風俗店にいって、バスタオルを巻いた彼女に自分がデザインしたCDジャケットを見せながら15分間モデルになってほしいとプレゼンをしてOKをしてもらい撮影させてもらいました。
でも、あがったデザインが出版社側でまた問題になってしまって。というのも写真が薄着の女の子だったんですよね。薄着もですが、その小説自体には主要な役で女性はでてこなくて。自分としては、表紙で、あえて女性を主人公にして本作とは違うけど、どこか似たような匂いがするストーリーをつくろうと思ったんですよね。そうすれば、小説の内容とぶつからないけど空気感だけは伝わるんじゃないかなと思って。
出版社側からは「純文学なのにこの表紙でいいの?」となっていたんですが、書店の営業担当からは反響がよくて。で、そのまま出版したらすごく売れたんです。いわゆる本のジャケ買いがあったようです。
で、その後、本の反響もあって文学界隈の装丁デザインをしていたら、新潮社から「写真集ださない?」といわれて写真集「Sloppy Girls」をだすことになったんです。
―――カメラをはじめてから写真集をだすまでがかなり早いですよね。
そうですね、カメラを買って1年で写真集の話をもらって、その後半年くらいで写真集をだしました。おかげさまで、その写真集自体も発売日当日に売り切れて、初版1500部で最終的に6万部近く売れました。結果的に、その年の写真集売りあげの2位になって。で、写真集が売れると「カメラマン」と思われるので、そこからカメラマンの仕事が来るようになったという流れです。これがカメラマンになった経緯です。
なので、写真集自体も下手ですよ。だってカメラ買って1年で出した写真集ですからね。表紙のピントも甘いし、ブレてるし。つまり、売れたのは下手な写真集だったからですね。そう思えば、当時7,8万円未満のカメラでかなり稼いだんじゃないかな・・・。
篠山紀信さんだけが無名な自分に声をかけてくれた。
―――すごいですね・・・初めての写真集でいきなり人気カメラマンになったわけですよね。当時かなり注目されたんじゃないですか?
いや、そんなことないですよ。実際、僕の写真集が売れたとき、写真業界からは何も反応がなかったんですよ。写真雑誌からも一切取材依頼もなくて。きっと僕がこれまで写真をしてきた人間じゃないからという理由だと思うんですけどね。タレントが本を出しても、専門の業界はソレを別物として見る風潮ってあるじゃないですか?それと同じようなものですよね。でも、そんな中、篠山紀信さんだけが連絡してきてくれたんですよ。
突然BRUTUSの編集部から電話があって、「篠山さんが『人間関係』のコーナーで君を撮影したいといっている。」と言われて、僕と僕の写真集でモデルを務めた女の子とで、篠山さんに撮影してもらったのが始まりです。
その時に、僕の写真集の中に女の子が暗いラブホテルのベッドでジャンプをしている写真があって、ブレてるような写真なんですが、篠山さんが「僕ね、あの写真好きなの。だから、そのホテルを編集さんに調べてもらって、女の子を連れて同じ写真を撮りに行ったんだよ。でもね、うまくいかなかった。悔しい。だけど、○ページの写真は篠山紀信のことを意識してない??ああいうのはね、篠山紀信はすごくうまいのよ」って話してくれて。
ほんとすごい人だなあって。こんな無名な作品、無視しようと思えばいくらでもできるのに、彼は写真家として自分と話をしてくれたのがすごくうれしかったんですよね。
―――かっこいいですね。
そうでしょ。だからね、タレントさんは篠山さんにおっぱいぐらい触らせたほうがいいんです。お坊さんに頭撫でられていると同じです。ご利益です。
まあ、こんなこといったら怒られますよね(笑)でも、本当にそうなんですよ。昔の話ですが、篠山さんの名前を知らなかった海外の某超有名女優さんも篠山さんと仕事をしたら、帰り際に「連絡先を教えて、今後日本に来たらあなたにお願いするわ」というくらいですよ。それって、彼が著名だから色んな写真が撮れてるわけじゃなくて、彼だから被写体は写真を撮られたいと思うわけですよね。
―――常盤さんも篠山さんから影響をうけていらっしゃるんですか?
そう。だから、そんな篠山さんとかを見ていると、こんな僕がちょっとばかし背伸びして上手風な写真をとったところでなんの意味もないなって思えるんですよ。写真って、ファンタジーとリアリティが両方あって、結局自己投影なんですよね。モデルが写ってても自分が写っているようなもんなんですよ。
次回へつづく
「セックス下手は学ぶべき!最高のエロスを引き出す写真家の技」